スーパーカブ 耐久チャレンジ

JA07型スーパーカブの耐久性を検証するブログです。

2020年9月 カブ吉くん 近況報告

 皆さまこんにちは、スーパーカブ耐久チェレンジの管理人です。

 

 9月に入った途端、あの毎日ギラギラとした太陽に照らされ続けた酷暑の8月とは打って変わって、曇天の日や雨の日が増え、気温も随分と過ごし易く感じるようになりました。季節が次のステップに進んだことを実感いたします。

  先月の8月は、数年ぶりに珍しくとんでもない忙しさだったジョニーさんの仕事も、9月の第一週を過ぎた辺りでようやく一段落付いたようで、現在はまた通常の仕事の流れに戻って来ているようです。

 そんな忙しい最中にあっても、ジョニーさんにとってカブ吉くんと共に移動する時間は、何物にも変える事の出来ないとても大切な時間であります。

 仕事やそれ以外の様々な出来事に対応する為にフル回転している頭の中を切り換えるのは、本当に容易な事ではありません。

 楽しい事や良い事ばかりならいいのですが、やっぱりイヤな事も、思い切り悩んでしまうような事も、世の中にはたくさんあるのではないかと思います。

 しかし、管理人が知る限り、ジョニーさんが難しい顔をして、何かに対して思い悩んでいるような姿を見たことは、あまり記憶にありません。

 まぁ、基本的にジョニーさんはポジティブシンキングなのですが、それでも、突発的に起こる様々な問題に対して何か良い方法はないのかと思考をめぐらす時には、要所要所での頭の切り換えが必要となる場面があります。

 一方向からの考え方に凝り固まってしまった頭は、そう簡単に柔軟な思考を取り戻せません。ジョニーさんはそれをカブ吉くん(オートバイ)と一緒に走るという事で、凝り固まった頭をリセットしています。と、言いますか、そこら辺はカブ吉くんに全面的にサポートして貰っていると言ってもいいくらいです。

 どんなに忙しい時でも、ジョニーさんはカブ吉くんに跨った瞬間に、仕事モードから『ただのオートバイ好きのおじさん』に変身してしまいます。先月の繁忙期にも、それは変わりませんでした。それがあるからこそ、ジョニーさんはそれほどストレスも溜めずに、仕事と向き合っていられるのかもしれません。

 ジョニーさんは、目の前にある大好きなオートバイをライディングする事に、本当に一生懸命になるのです。そこには、仕事を含めてそれ以外の様々な事を考えたりする時間が入り込む隙間は、よほどの事でもない限りあまりありません。頭を切り換えるには、こういう時間の過ごし方がとても重要になります。

 ただし、オートバイに乗ったからといって、その後に必ずしも名案が浮かぶ訳ではありません(当たり前の話しです)。でも、たとえ何も浮かばなかったとしても、間違いなく気持ちのリフレッシュは出来ているようです。これが出来ているのか、いないのかは、現代のようなストレス社会を生きて行く上では、とても重要な事だと管理人は思います。

 これはジョニーさんから聞いた話しですが、44年前に大好きだった女性との恋が終わった時に、ジョニーさんはオートバイで長野県の霧ヶ峰を目指したのだそうです。

 走り始めのわずかな時間は、さすがに頭の中で彼女との事を考えたりしていたらしいのですが、10分も走っているとそれも無くなって来るのだそうです。

 たまに信号待ちで、彼女の事が頭の中に浮かんで来ても、クラッチを切り、ギヤをローに入れ、スロットルを開いた瞬間に、すべてが消えてしまうのだそうです。

 国道20号線(甲州街道)の大垂水峠を越えている時などは、コーナーリングに集中しているせいなのか、最初から最後まで一切彼女の顔は浮かんでこなかったそうです。

 『オートバイっていうのは、そういう物なんだよ』っと、ジョニーさんはちょっとカッコつけながら言っていました。

 しかし、そんなハードボイルドなジョニーさんですが、誰もいない季節外れの霧ヶ峰の風の中に一人ポツンと佇み、真っ青な空を見上げた瞬間に、全ての緊張の糸がプツンと切れてしまいます。

 そこからは、その美しい全ての景色が滲んでしまうように、ジョニーさんの目からはいつまでもいつまでも、とめどなく涙が溢れ続けたのだそうです。

 

 さあ、そんな40数年前の素敵(?)な恋の話しはさておき、今月の近況報告をさせて頂きたいと思います。

 9月のジョニーさんとカブ吉くんは、酷暑の8月から一気に変化した、新しい季節の風を感じるライディングをとても楽しんでいたようです。

 今年の8月の東京は猛暑が続き、本当に雨の日が少なかったような気が致します。そして、たまに天気が崩れても、それが長続きするような事はありませんでした。

 しかし、それは9月に入った途端に変わってしまいます。秋雨前線や台風の影響もあって、一日の中で雨が降ったり止んだりするという、グズついた天気の日がとても多くなりました。

 そんな日のジョニーさんは、レインスーツを着たり脱いだりするのが若干めんどくさそうでしたが、それでも大分下がった気温にも助けられて、8月の灼熱の中の熱風が身体中にまとわりつくようなライディングとはまた一味違った、清涼な秋の風を感じるライディングを楽しめる気分になったのだそうです。

 また、今月の走行エリアは、東京都区内から神奈川県県央部、千葉県県央地区がメインとなりましたが、先月程の移動頻度はなく、月間の走行距離も1,632kmという結果となりました。当然と言っては少し寂しすぎますが、この距離の中に『ツーリング』での使用はありません。

 そんな中でも、ジョニーさんの唯一の抵抗として、二回のミッドナイトラン(夜走りです。一回80kmくらい走ります)は、含まれております。

 そして、7月くらいからなんだか突然良くなってしまった月間平均燃費ですが、今月の数値は64.73km/ℓ という結果となりました。

 これは、先月の驚異的な記録には及びませんが、9月としては過去最高の数値となります。

 今までの記録は、先月も書きましたが2011年の9月に記録した64.19km/ℓ というのがありました。この記録は、実は先月に塗り替えられてしまいましたが、『9月』というくくりだけではなく、それまでのカブ吉くんとしての月単位の平均燃費の最高値だったのです。

 少し古い話しになり恐縮ですが、この2011年の9月というのは、夏の暑さが下旬くらいまで続いていて、毎日を過ごすのがとても大変だったのです。しかし、月間平均燃費には、この気温の高さがいい結果をもたらしたことが推測されます。

 そして、もう一つの要因としては、『2011年カブ吉くん走行データ』の記事でも書いていますが、この月に実施された二回のツーリングの内のひとつである『日本海往復日帰り600kmツーリング』も、間違いなくこの燃費に貢献していたことが思い出されます。

 毎日、うだるような暑さの中を過ごしていたこの時期のジョニーさんの頭の中には、1973年の5月にリリースされた中川イサト氏の『お茶の時間』というアルバムのA面の2曲目に入っている、『その気になれば』という曲がずっと流れ続けておりました(『1970年』というアルバムに入っているバージョンとは全然違います)。

 

 水色の眠りの 電車から降りると

 そこはオレンジ色の海

 そんな夢を見ながら 深刻そうな顔をする

 その気になりさえすれば

 夏の終わりの 海がみられるのに

 その気になったら 夏の終わりの海にいられるのに

 その気になったら 夏の終わりの海

           

                作詞:中川イサト

 

 少年のように悶々とした日々を過ごしていたジョニーさんですが、この曲の中川イサト氏の淡々と語りかけるボーカルに寄り添うように存在する、女神のようなバッキングボーカルにいまだに完全にやられ続けているのです(初めて聞いた時から何十年も経つのですが、ジョニーさんはあまり進歩していません……)。

 とうとうジョニーさんは、堪りかねて9月18日の早朝に突然カブ吉くんに跨り、日本海を目指します(何に堪りかねているのか、全く意味が分かりませんが……)。

 国道17号線を埼玉県、群馬県と延々と下り込み、三国トンネルを抜けて新潟県に入ります。そして、苗場、湯沢を過ぎて山を下りた石打で第一回目の給油をします。その後、国道353号線から253号線、そして県道61号線を経由して柿崎の海岸に12時ちょうどに到着しました。ここまでの走行距離は、ぴったり300kmです。

 柿崎の浜辺に立ったジョニーさんは、久しぶりに見る日本海の景色を目に焼き付け、その風を肌で感じた後、大きく深呼吸をして再びカブ吉くんに跨ります。

 帰り道は、同じ道を走るのが嫌いなジョニーさんらしく、県道30号線で新井を経由して、そこからは国道292号線を使い、志賀高原から草津を抜け、長野原から中之条、渋川へと走ります。そして、その後は国道17号線をひたすら上り込んで東京を目指します。三連休の中日だったので、途中の渋滞もあり、最終の練馬到着は23時くらいになったと記憶しています。

 この600kmのツーリングの燃費は、詳細な記録は残っていないのですが、恐らく66km/ℓ くらいの数値だったと思います。

 月間平均燃費を算出するに当たり、月の中にこういうツーリングが入ると、その月の燃費数値はぐっと良くなるものなのです。

 しかし、2020年9月にはそういう燃費が向上するようなツーリングはありませんでした。それにも関わらず、月間平均燃費は0.5km/ℓ ほど良い数値を記録しているのです。

 

 さあ、このカブ吉くんの好燃費は、一体いつまで続くのでしょうか? 10月になると、朝晩の気温もさらに低下していきます。エンジンオイルは、過去とは違う少し硬めの10W-40が使われています。

 ちなみに、今までの10月の月間平均燃費の最高値は、2013年に記録した62.94km/ℓ という値です。この時は、月間で2101kmを走行し、ツーリングなどには行っていません。エンジンオイルは、G1の10W-30が使用されています。

 この2013年10月の月間平均燃費は、そういう条件を踏まえた上でも、この時期としては中々記録する事の出来ない、かなり良い燃費ではないかと思います。

 

 珍しく『燃費』の話しが続いている近況報告ですが、一体、来月のカブ吉くんの月間平均燃費はどうなってしまうのでしょうか? また、ご報告させて頂きます。

 

 秋の長雨もそろそろ終わりそうなので、またオートバイに乗るのに絶好の季節がやって来ます。

 新型コロナウイルスの問題があるので、例年と同じように楽しむことは出来ないかもしれませんが、少しでも清涼な秋の風を感じながら、透きとおった景色を楽しんで頂ければと思います。

 

 それでは、また来月お会いしましょう。

                                    管理人

 

 2020年9月末現在 全走行距離 254,365km

(9月走行距離 1,632km 燃費 64.73km/ ℓ )

月まであと 130,035km

 

2020年8月 カブ吉くん 近況報告

 皆さまこんにちは、スーパーカブ耐久チャレンジの管理人です。

 

 今月は、終戦から75年目の8月となります。それなので、いつものカブ吉くんの近況報告の前に、そんな事も踏まえた、少し違った角度からの話しをさせて頂きたいと思います。少々長くなりますが、お許しくださいませ。

 

 ジョニーさんは毎年この8月という月を迎えると、なんだか心がざわざわと落ち着かなくなるのです。若い頃はこんな事はなかったようなのですが、年齢を重ねるとともに段々この兆候が出て来るようになってきました。

 10代から20代までは、ギラギラと照り付ける太陽の勢いを撥ね返すくらいの元気さで、青春を謳歌していたようですが、30代を過ぎる頃になると今まであえて目を向けないでいたような事も、再びきちんと目を向けて考えなければならないと思うようになってきたそうです。

 ジョニーさんのご両親は、お二人とも大正生まれの戦争体験者です。当然ジョニーさんは、小さい頃から『戦争』についてのいろいろな話しを聞かされて育ってきました。若い時にはなかなか理解出来なかったような事も、年齢や経験を重ねていくうちに、人間が生きていく事の喜びや悲しみ、楽しみや苦しみが徐々にではありますが、分かるようになってきます。

 人間一人の力ではどうにもならない程の大きな時代の流れに押し流され、巻き込まれたあげくに、『生きたい』と切望しながらも、それが叶わなかった多くの人達の事や、そのご家族の事を考えると、ジョニーさんの心はざわざわが止まらなくなるのです。

 

 1931年(昭和6年)9月に起こった満州事変を契機に始まった日本と中国の争いは、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を境に全面的な日中戦争へと発展していきます。

 更に1941年(昭和16年)12月にはイギリス、アメリカなどの連合国を相手に太平洋戦争へと戦線を拡大していきます。しかし、開戦後半年以降は日本が劣勢となる局面が増え、次第に連合国との国力の差が反映された結果となっていきました。

 そして、1945年(昭和20年)8月に広島、長崎に投下された二発の原子爆弾と、日ソ中立条約を破棄して参戦したソビエト連邦の影響もあり、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏で終戦となったのです。

 終戦直後の日本は連合国軍の占領下に置かれ、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)によって大日本帝国の国家体制は次々に解体されていきます。それは、この国の国力を削ぎ落とし、二度と自分たちへの脅威とならないようにする為に、大規模な日本の国家改造を実施する事につながっていきます。

 まずは、戦争を永久に放棄する事を謳った日本国憲法が制定されます。そして、大日本帝国の中で大きな権力を持っていた内務省の廃止や治安維持法の廃止、財閥の解体や農地改革など次々と民主化政策を実施していきます。そして、更にそれらの動きと並行して日本人の意識を改革するために、教科書やラジオ放送などのメディアを使った情報誘導による民主化政策も併せて実施されました。

 食糧事情も大変に悪く、終戦後一年近くも戦前から続いていた日本に対する経済封鎖が解かれなかったために、食料を求めるデモが東京の各地で起こっていました。1946年(昭和21年)5月には、皇居前に約25万人の民衆が集まる『食料メーデー』と呼ばれる大規模なデモに発展します。

 日本の食糧配給制度が維持できないこのような状態では、逆に占領政策が暗礁に乗り上げてしまうと考えたアメリカは、同年の5月からようやく日本に対する経済封鎖を解きます。また、同年の11月には南北アメリカ大陸に居住する日系人(戦時中は強制収容所に入れられていた人々)が中心となって『ララ物資(LARA:アジア救援公認団体)』の第一便が横浜港――新港埠頭に記念碑があります――に到着します。

 それ以外にも、ユニセフアメリカのその他の支援団体などの様々な援助や支援に助けられて、食料をはじめ、衣類、医薬品、石鹸などの物資が徐々にいき渡り始めます。

 また、工業の分野においては、重化学工業や研究施設、工場などは破壊され、ほかのアジア諸国と同様に農業や漁業や繊維などを主力産業とする、アメリカや欧州連合国に従属的な国とするべく、極端な日本弱体化政策が進んでいたのですが、1947年(昭和22年)になると、突然アメリカの中から『日本とドイツは、アジアとヨーロッパ地域の復興を促進させる2大工場として機能させる為に、この両国の復興を促進させる』という方針が発表されます。

 更に翌年の1948年(昭和23年)初頭には、大戦後から不気味な動きをみせる共産主義国社会主義国を牽制する意味も込めて、アメリカ陸軍長官が『日本を反共の砦とする』という演説を世界に向けて発信します。

 そして、その演説と前後するように日本の経済実情を分析したアメリカは、日本の産業復興こそが自由社会のパワーバランスに寄与し、新しいアジア社会構築にも有益であると確信する事となります。そして、アメリカは新たに日本の平和的な産業復興を最大の占領目的と定めて、動き始める事になるのです。

 一度はドイツと同様に全ての工業が解体され、再び強国に復活するのは不可能な状態まで転落させられるはずだった日本の運命がここで大きく変わりました。

 こんな様々な事象を経て、占領下の日本は再び経済復興の道を歩み始めます。そんな中、1950年(昭和25年)6月に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻して朝鮮戦争が勃発します。大韓民国を支援する国連軍(アメリカ軍が主導)の航空機整備の必要などから工業生産規制が緩和され、制限付きではあったようですが、重工業の生産枠も拡大されるようになります。

 この『朝鮮戦争特需』と言われる経済事象は、1953年(昭和28年)7月に北朝鮮軍、中国軍の両軍と、国連軍の間で休戦協定が結ばれるまでの3年間続く事となりました。この特需による効果は、日本の各種産業に業績の好転をもたらしただけではなく、敗戦によって中断していた最新技術をも入手する事となりました。更に、アメリカ式の大量生産技術を学ぶことも出来た上に、戦前の人海戦術的な生産方式から脱却して、再び産業立国となる上で重要な技術とノウハウを手に入れる事となったのです。

 そして、その特需景気で湧く最中の1951年(昭和26年)9月に『サンフランシシコ平和条約』が締結され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日にそれが発効する事によって、日本は国としての主権を回復する事となりました。

 それは、具体的にどういう事かというと、この日を境にGHQ連合国軍最高司令官総司令部)の進駐(占領)が終わったと言う事です。しかし、アメリカだけは『サンフランシスコ平和条約』の締結と同日に、日本と『安全保障条約』を結んでいた為に駐留が継続します。これが、今なお続く在日アメリカ軍の始まりです。

 

 少々ではなく、大変長くなって申し訳ございません。何故このような話しを延々としているかというと、それはこの後の1958年に皆さまの大好きな本田技研工業の『スーパーカブ』が登場してくるからに他なりません。

 管理人は、この発売以来60年以上に渡り基本設計を大きく変える事なく造り続けられている『スーパーカブ』というオートバイが、どのような時代背景の中から、この世の中に登場して来たのかという事を、きちんと理解している事はとても大切な事だと考えています。

 

 さあ、主権を回復したその年の6月に、いよいよ『カブ』の名前が付いた最初のモデルが登場します。『カブ号F型』です。

 この『カブ号F型』は自転車に取り付ける50ccの補助エンジンで、空冷2ストローク単気筒で1馬力を発生しました。白いタンクに赤いエンジンが特徴的なこのモデルは、全国5万軒の自転車店にダイレクトメールを送るという戦略もあって、大ヒットとなりました。

 しかし、1954年(昭和29年)になると、後発メーカーの追い上げもあり『カブ号F型』の売り上げがパタリと止まります。それに加え派手な前宣伝をうったスクーターの『ジュノオK型』が思うように売れず、ドリーム4E型も原因不明のエンジン不調でクレームが続出、ベンリイもタペットとギヤの音がうるさいと評判が良くありません。そして、その結果本田技研工業は会社創設以来の大ピンチを迎える事となります。

 その年の5月末には、外注業者全員に当時の和光市白子工場に集まって頂き、支払いの一部棚上げをお願いする事になります。ただ、それでも部品は入れて貰わないと生産がストップするので困るという、無理難題を外注業者の理解と協力でなんとか乗り切る事が出来ました。

 次は、本田技研の創業当時からのメインバンクである三菱銀行に対して、初めての支援をお願いします。こちらも三菱銀行常務及び当時の京橋支店長の英断により、全面的なバックアップを受ける事となりました。

 最後は、この年の12月の労働組合との団体交渉です。ここでも、組合の越年手当要求額2万5000円のところを、五分の一の5000円という金額で組合員たちに納得して頂くという、良い意味で信じられない結果となったのでした。

 この素晴らしい外注業者、素晴らしい銀行、素晴らしい従業員が三つ同時に揃う奇跡によって、本田技研工業は再び息を吹き返すのです。

 

 さあ、再び話しは経済復興中の日本に戻ります。

 この1954年(昭和29年)12月というのは、『神武景気』の始まりと言われています。ここから、1970年(昭和45年)までを『高度成長期』と呼びます。その幕開けの年である1955年(昭和30年)には、経済水準では、戦前を超えるレベルまでに戻ってはいたものの、まだまだ不安定さは拭えない状況でした。食べるものにも困るような事は大分減って来たものの、実感としては、まだまだ豊かな社会には程遠い状況です。

 翌年の1956年(昭和31年)になると、家電品を中心とした耐久消費財ブームが始まり、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが『三種の神器』と呼ばれるようになります。しかし、これらの家電品は庶民にはまだまだ高嶺の花だったので、その当時大人気だったプロレスの力道山を見る為に、人々は街頭テレビに群がるのです。ジョニーさんも、お父様が大のプロレスファンだったので、幼少の頃から連れて行かれていた記憶があるそうです。(ちなみに、ジョニーさんも昔は大のプロレスファンでした)

 本田技研工業としては、1955年(昭和30年)に本田技研として初めてのOHCエンジンを搭載したドリームSB(350ccモデル)とドリームSA(250ccモデル)の販売を開始し、好評を博していました。その中でもドリームSAは、今まで一度も勝つ事が出来なかった『富士登山レース』に出場し、初優勝を遂げる事となります。

 更に、1956年(昭和31年)の年末には、本田宗一郎氏と藤澤武夫氏は『カブ号F型』に替わる次期の新型50cc開発の構想を固める為に、耐久消費財ブームで湧く日本を後にしてヨーロッパへと旅立ちます。そして、各国を視察した帰国後に、新型50ccモデルの開発へと一気に進んで行く事になります。

 この頃の日本の道路の舗装率は、ヨーロッパと比較すると格段に低いものでした。まだ、主要道路の舗装率は10%くらいの時代です。悪路で誰もが容易に操る事が出来るように、エンジン出力に余裕があり、小さくて、軽くて、乗りやすくて、丈夫なものが求められます。

 1957年(昭和32年)1月、まずはエンジンの開発が開始します。エンジンは4ストロークで4馬力の出力想定しています。この時点では、世界中のどのメーカーも50ccの4ストロークエンジンは量産していません。また、出力の4馬力も『カブ号F型』の4倍に相当する高性能エンジンです。

 翌2月には、車体の開発も始まり、オリジナリティーのある様々な車体構成が決まって行きます。まず、それまでほかの車種で使用される事のなかった『17インチタイヤ』の採用もここで決まります。ヨーロッパの舗装路を快調に走るモペッド達は、概ね24インチから26インチの大径タイヤを装着しています。しかし、戦後10年以上が経過するにも関わらず、まだ主要道路の9割近くが未舗装の日本で走行する事を考えれば、日本人の体格を以ってして、乗り降りがしやすく、足つきが良く、尚且つ走破性を犠牲にしないという条件を満たすものが、この『17インチタイヤ』だったのです。

 しかし、この『17インチタイヤ』は当初タイヤメーカーやリムメーカーの反発を受ける事となります。それは、「ホンダの売れるかどうかも分からないたった1機種の為に、わざわざそれを造る事は出来ない」という、大手タイヤメーカーの造り手側の理論です。それでも、ホンダはそれを使う人々(お客様)の事を考え、決してあきらめません。そうこうする内に、愛知県にある二輪タイヤメーカーがその『17インチタイヤ』の製造を引き受けてくれる事となり、この新型50ccモデルの非常に重要な構成部分の問題は解決となりました。

 それ以外にも、女性が乗る事を意識したステップスルーの車体構成や、エンジン部を覆うレッグシールド等の樹脂部品、手動クラッチを用いない変速機構などが巧みに組み合わされてデザインされたこの新型50ccモデルは、開発から1年8か月後の1958年(昭和33年)8月に、『スーパーカブ』として人々の前に姿を現します。

 この今までのオートバイとも違う、スクーターとも違う、新しいスタイルの乗り物は、瞬く間に爆発的なヒット商品となります。今から、62年前の出来事です。

 高度成長期の時代に、この『スーパーカブ』は、まだまだ不便な部分が多い庶民の暮らしの中で、様々な場面で活用されるようになっていきます。そして、その基本コンセプトである『乗りやすさ、使いやすさ、耐久性、経済性等』という、本田技研工業の『お客様の満足が第一』の全てが結晶となったこの『スーパーカブ』は、以来庶民の生活の中に在り続けながら、大きく基本設計を変える事なく、細部の改良を重ねながら2020年の現在に至るまで連綿と造り続けられてくるのです。

 そして、その子孫であるJA07型のカブ吉くんも、2010年の7月からジョニーさんの大切なパートナーとして、日々活躍中です。

 

 大変長くなり、申し訳ございません。それでは、そろそろカブ吉くんの今月の近況報告に移らせて頂きます。 

 先月もお伝えしましたが、そのカブ吉くんの月間平均燃費が、今月もまた大変な事になっているのです。

 過去の8月の月間平均燃費の最高は、2013年の8月に記録した64.01km/ ℓ でしたが、今月に記録した燃費は、それを3km/ ℓ 以上も上回る67.18km/ ℓ を記録したのです。この記録は、現在までのすべての月の平均燃費をも上回る記録となります。(カブ吉くんの過去最高の月間平均燃費は、2011年の9月に記録した64.19km/ ℓ でした)

「一体、カブ吉はどうしちゃったんだろう?」と、ジョニーさんは驚きを隠せません。先月の近況報告でもお伝えした通り、ドライブチェーンとスプロケットの交換がこの燃費に寄与している可能性が高いとは思うのですが、それにしても『消える前のローソクの火』を思うと、ジョニーさんの頭の中には一抹の不安がよぎります。

 実際問題として、カブ吉くんの年間平均燃費は2015年(約13万5千キロ走行時)を境にして、昨年まで年々低下を続けていました。

 カブ吉くんのエンジンの調子的には、大きく性能低下をしているようには感じないのですが、燃費という面から見てみると、じわりじわりと経年劣化が進んで来ているとジョニーさんも吉村さんも考えていたのです。

 それが、走行距離も25万キロを超えているのも関わらず、再びこのような過去に記録した事もないような好燃費を、いきなり出してしまったりするのです。

 エンジンオイルが減る現象にも変化がないので、オイル下がりが止まっている訳ではありません。普通に1000kmを走って、150ccを補給しなければいけないくらいに減っています。

 

 現代の多くの人々が普通に求める、簡単とか便利という観点からは、スクーターやほかのマシン達に敵わない部分がたくさんある『スーパーカブ』ですが、60年以上前の基本設計を大きく変えずに改良を重ね、現代でも十分に活躍できる能力を持つ名機であるという事に、皆さま方も大きな異論はないと思います。

 当然ながら、この耐久チャレンジを続けているカブ吉くんも、その基本設計を受け継いで造られたモデルとなります。

 JA07型スーパーカブやこれ以降のモデルも含め、高度成長期に庶民の生活に少しでも役に立てばと、設計されてこの世に出た『スーパーカブ』達の持っている本当のポテンシャルというのは、一体どのくらいのものなのでしょうか?

 25万キロを超えても、まだ底知れない能力を感じさせるこの『スーパーカブ』というオートバイに、管理人は本当に驚きを禁じ得ません。

 

 この『スーパーカブ耐久チャレンジ』は、今後もジョニーさんとカブ吉くんが走り続ける限り、検証を行っていきたいと考えています。しかし、それが出来るのも『平和』な時代が続いてくれるからに他ありません。

 これからも、この『平和』な世の中がずっと続いていく為にはどうしたらいいのか?  一人ひとりが真剣に考え、努力をしていかなければならないと管理人は考えています。

 

 今月も、長々とお読み頂き、大変ありがとうございました。

 

                                   管理人

 

2020年8月末現在 全走行距離 252,733km

(8月走行距離 2,686km 燃費 67.18km/ℓ )

月まであと 131,667km

 

 

 

2020年7月 カブ吉くん 近況報告

 

【25万キロ通過!】

 

 皆さまこんにちは、スーパーカブ耐久チャレンジの管理人です。

 

 早いもので、2010年7月15日からジョニーさんとカブ吉くんのコンビが走り始めて、今月でまる10年が経過しました。

 おかげさまで、予定通りと言っては少し語弊がありますが、その間大きな事故やトラブルの発生なども起こらずに、二人は約25万キロを無事に走行する事が出来ました。

 

 このコンビが走り始めた当初は、『月間平均で、最低2千キロを走る!』ということを目安にしていましたので、

『1年間にすれば2万4千キロで、10年で24万キロだな~』

などと、ジョニーさんは軽口を叩いておりましたが、小排気量マシンでありながら、結果としてキチンとこの『地球6周分』以上の距離を走って来た事に対しては、大変素晴らしい事でありますし、管理人は敬意を表したいと思います。

 

 今回はそんなところも含めまして、この10年という期間を走行してきた中で、特に皆さまにお伝えしておきたい事をピックアップしてご報告をさせて頂きます。

 

 2010年からぴかぴかの新車で走り始めたカブ吉くんも、10年で約25万キロを走り続けてきた証しとして、さすがに色々なところに貫禄が付いて来たように思います。

 まずは『鉄カブ』に乗られていた諸先輩方が一番気にしていた樹脂外装関係の話しからですが、ジョニーさんの言葉を借りるとすれば、

『まぁ、10年も走ればこんなもんだろうし、でも、走り始めた時に周りから言われていた程、ひどい事にはなってないんじゃないのかなぁ~っていう気がするけどね……』

 と、言う事になります。

 まぁ、この外装の件に関しては、概ね管理人も同意見です。しかし、欲を言えばもう少しジョニーさんが『磨き好き』なライダーだったら、カブ吉くんは間違いなくもっともっと綺麗でいられたのではないかと管理人は思っておりますが……。

 ジョニーさんという人は、メンテナンスに関しては本当に手を抜かずにきちんとやる人なのですが、『カブ吉くんの傷が付いたところを目立たなくしたりとか、全体をぴかぴかに磨き上げたりする』というような部分に関しては、ほとんど無関心と言ってもいいくらいの人なのです。

 ですから、樹脂部品ではありますけれど、カブ吉くんの青いフロントフェンダーの先端に貼られている『原付二種』である事を判別するための『白いマーク』部分が微妙に削れていたり、レッグシールドの表面にたくさんの灰色の縦すじが付いていたり、リヤフェンダーの左側が紫外線によって白化が始まっていたりもするのですが、それらの外装部品に対して、ジョニーさんはあまり積極的に綺麗にしようというアクションを起こすことはありません。

 しかしながら、そんなジョニーさんでもリヤフェンダーの白化だけは最近少し気になるのか、たまにメンテナンスの最後に『保護・つや出し剤』を使用して磨いたりしていますが、唯一やるのはこくらいのものなので、その他の部分に関しては、やっぱり手つかずのままとなります。

 それ以外には、ドライブチェーンカバーの上側が若干ふくらんでいたりする不具合はありますが、実際に10年間という年数を考えてみると、最初にジョニーさんが言っていた言葉に戻る事になります。

『まぁ、10年も走ればこんなもんだろうし、でも、走り始めた時に周りから言われていた程、ひどい事にはなってないんじゃないのかなぁ~……』

 

 ジョニーさんは、雨の日でも平気でカブ吉くんに乗って出掛けて行きます。そして、一日中雨の中を走り回って来るのですが、それでも帰って来た時には、ジョニーさんはどんなに疲れていても、ササっとカブ吉くんの事を雑巾で拭いた後にバイクカバーを掛けます。

 カブ吉くんは、決してガレージ等に保管されていて、綺麗に水分を拭き取ったり、残っている細部の水滴をエアーで吹き飛ばしたりして貰っている訳ではありません。

 こういう使用状況や保管状況なのだと言う事を、頭の中にイメージして頂けると大変助かります。そして、これが雪の日以外はほぼ毎日走って来た、カブ吉くんの10年間の中での外装の耐久性に関する結果とお考えいただければ幸いです。

 

 それから、樹脂部品以外の外装関係に関する話しとしては、昭和の時代から乗り続けているベテランライダー達も同意見になるのではないかと思うのですが、カブ吉くんのフロントフォークは、10年間走り続けていてもピカピカなのです。これは、昭和の時代のオートバイ達には、なかなか無かった事だと思います。

 だいたい昔はどのマシンでも、アルミ合金を使用した部品の塗膜は徐々に剥がれ、白錆や腐食等に悩まされていたものですが、現在のカブ吉くんにはそういう不具合がまったく起こらないのです。

 エンジンのクランクケースカバー等も、ジョニーさんがニーグリップが出来ないマシンに乗った時によくやる『くるぶしグリップ』を10年間受け続けながらも、若干の塗膜が剥がれただけで、まだまだ頑張っています。

 そういう部分を見ていると、平成以降に生産されたマシン達は、工作技術や塗装技術など様々な面で昭和の時代を完全に超えています。

 ただでさえ、四輪車に比べても二輪車は長生きな個体(昭和45年前後の車齢50年クラスも、まだまだ元気に走っています)が多いような気がするのですが、平成生まれのマシン達は一体いつまで走り続けるのでしょうか? 考えるだけでも、興味が尽きません。

 

 エンジン関係については、現在ほかの記事でも報告をしている『排気バルブのステムシールからのオイル下がり(たぶん?)』以外に、大きな不具合はありません。カムチェーンの音などは大分大きくなって来ていますが、エンジンの調子自体はまったく問題はありません。

 燃費に関しては、今月はどうした訳か2010年からの7月としては、過去最高の月間平均燃費63.61km/ℓ を記録しました。月間走行距離は、1,937kmを走りましたが、この新型コロナウイルスの影響の中ですので、仕事で郊外を走る事はありましたが、燃費の伸びるツーリングなどには行っておりません。

 今月、記録が更新される前までの月間平均最高燃費は、2011年に記録した62.92km/ℓ でしたので、実に平均燃費で約0.7km/ℓ も向上しています。

 2015年以降は、カブ吉くんの年間平均燃費は少しずつではありますが、確実に低下の傾向を示していました。毎月の月間平均燃費もほぼ同様な傾向を示しています。

 ジョニーさんがこの事を吉村さんに報告した時の、二人の会話は次の通りです。

 

「吉村さん、カブ吉は一体どうしちゃったんだろうね? 考えたくないけど、まさか、ローソクが消える前に一瞬すごく明るくなるヤツとかじゃないよね……」

 

「ジョニー、またネットで変なクスリ買ってカブ吉に入れたんじゃねぇだろうなぁ?」

 

「バカな事言わないでよ、そんなクスリある訳ないじゃない……」

 

「ハッハッハ、冗談だよ、心配するな。たぶん、ドライブチェーンとスプロケットを交換して、駆動効率があがったんだろうな~。ジョニーが一生懸命にチェーンに油くれて伸びは止まっていたんだろうけど、24万キロ走る間に段々段々ロスが出て来てたんだと思うぞ」

 

「あ~、確かにそうかもしれないな~。結構、音がジャラジャラうるさいだけじゃなくて、横ブレとかひどかったからね~。そうか~、だから年間平均燃費もじわじわと落ちて来てたのか……。OK、分かった、安心した。そうしたら吉村さん、来月の8月はもっとカブ吉の燃費は良くなるかもしれないね、楽しみ、楽しみ」

さっきまで暗い顔をしていたジョニーさんですが、突然ニコニコおじさんに変身です。

 

 ジョニーさんのカブ吉くんへのガソリンの給油方法は、きちんと決まったやり方があります。まぁ、最終的には月間平均や年間平均を出すので、おおきな誤差は生じないのですが、それでも、一回々々の給油も出来るだけ正確になるようにしています。

 そんなカブ吉くんの、2020年7月の給油回数は全部で11回あったのですが、そのうち、69km/ℓ 台が2回、67km/ℓ 台が1回、65km/ℓ 台が2回という、軒並みスゴイ燃費が出ていました。

 25万キロを走っているにもかかわらず、まだこんな燃費を普通に連発してくるカブ吉くんに対して、管理人は驚きを隠せません。

 ジョニーさんにも更に力を発揮して貰いたいと思いますが、ジョニーさん自身も大分年齢が高くなって来ているので、足りない所はカブ吉くんが頑張るというスタイルが、これからのこのコンビの形かもしれません。いずれにしろ、管理人はこれからもこの二人を見守っていきたいと思います。だって、まだ『月』まで13万4千キロもありますから……。

 

 

 さて、いい話ばかりしていてもしょうがありませんので、次は、たぶん皆さまが気になっておられるであろう、あまり良くない方の話しをしたいと思います。

 覚えている方もいらっしゃるのではないかと思いますが、一時期話題になっていた『走行中に、信号で停止しようとした時などに、突然エンジンが一緒にストールしてしまう現象』というのがありました。

 この現象に関しては、現在でもカブ吉くんにたまに起こる事があります。

 しかし、長年カブ吉くんと一緒に走っているジョニーさんは、その兆候が表れるとなんとなくその時の雰囲気で、それが分かるようになって来ています。

 その時のジョニーさんは、すぐにシフトダウンして回転を上げてみたり、スロットルを開いて意識的に回転を上げたりしています。そうすると、うまくいけば、エンジンはそれに反応してストールを免れる事が出来たりするのです。でも、何もしなければ、たぶんそのままストールしてしまいます。

 また、たとえエンジンがストールしてしまったとしても、初期の頃のように暫くエンジンが始動しないというような事はほとんどなくなりました。大体、すぐに再始動が可能です。ただ、再始動をする場合は、一度メインスイッチを切り、再びスイッチを入れて始動します。そして、その時はセルよりもキックの方が確実に始動が出来ているようです。

 2018年までにジョニーさんが実施して来た、『中国地方一周ツーリング』や『九州ツーリング』、『四国西側ツーリング』、『東北太平洋岸ツーリング』等の中距離及び長距離ツーリングの最中に、そのような事象が起こって走行不能になるような事態は、今まで一度も起こっていません。

 当初、この問題が発生した時は、『いつ止まるかも分からないエンジンじゃ、日本一周ツーリングを実施するのは無理じゃないの?』という大問題が持ち上がり、かなり悩んだものですが、こうして10年間無事に走り続けてきたおかげで、現在では、カブ吉くん(JA07型スーパーカブ)がそのようなトラブルを発症して走行不能に陥るというケースは、ジョニーさんの想定にまったく入っておりません。

 ジョニーさんはカブ吉くんを、数年後に必ず実行するであろう『日本一周ツーリングのパートナー』として、完全に信頼しているのです。

 

 それから、最近このJA07型スーパーカブに乗られていて、ジョニーさんと同様にかなりの距離を走られているマシンが増えてきているようなので、エンジン関係でもう一つだけ報告しておきます。

 ACジェネレーターのステータコイルの焼損は、防ぎようのないトラブルなので、ご注意をお願い致します。カブ吉くんの場合は、あとで考えてみると、異常電流が発生していたのかは分かりませんが、そのトラブルが出る前は、テールランプの球切れが頻繁に起こったりしていました。それも、普通にスパッと切れているのではなく、フィラメントがぐにゃぐにゃになって切れていたりするのです。

 全てのマシンがそうであるとは限りませんが、もしご自分の愛機にそのような兆候が表れたら、ぼちぼちかもしれませんのでお気を付けください。

 ジョニーさんとカブ吉くんは、2017年10月初旬の満月のとても綺麗な晩に夜走りに行き、足立区の国道4号線の梅島陸橋の手前で電気が全て落ちて走行不能になり、JAFのトラックに乗って真夜中にトボトボと二人で帰って来た事がありました。

 これが、もしツーリング中だったら本当にシャレになりません。カブ吉くんのその時の走行距離は、18万2千キロを超えていました。

 しかし、これは様々なマシンを整備している吉村さんに言わせれば、「まぁ、ここまで持てば十分だろう」という距離に該当するそうです。

 カブ吉くんと同じメーカーの250ccクラスのマシンでも、10万キロ持たずに修理交換となる個体もあるそうなので、このトラブルに関しては各々のマシンの特徴を見極めて頂くしか方法はないようです。

 また、これはトラブルというよりも、どちらかというと消耗品の交換という認識でいて頂いた方が、分かりやすいのかもしれませんね。

 いずれにしろ、10万キロを超えて走行を続けているJA07型スーパーカブのオーナーの皆さまは、十分にお気を付け下さるようにお願い致します。昼間ならまだなんとか走れそうですが、夜間走行時にこれが起こると、もう走れませんから……。

 

 あとは、『メンテナンス(ハンドル廻り編)その二』にも記事として書いていますが、ディマスイッチの下向き側が17万2千キロで不良になり、スイッチ本体を交換しています。

 

 それ以外にも何か問題がなかったかいろいろと思い出してみたのですが、ジョニーさんとカブ吉くんが10年間走ってきた中で、特に走行に支障が出るような大きなトラブルは、どう記憶を掘り起こしてもこのくらいしかなかったような気がします。

 

 雪の日以外は毎日走る事に決めているので、毎週末のジョニーさんの『日常メンテナンス』は欠かせませんが、それ以外の予防整備的な部品交換等は基本的にありません。

 スーパーカブの昔から使い方である『壊れたら直す』を実践しています。

 今後は、車齢的にも段々とワイヤーハーネス系に問題が発生するような気もしていますが、ジョニーさんとカブ吉くんの『日本一周ツーリング』はもう暫く先の事になりそうなので、それまでに不具合が発生するかどうかが気がかりなポイントではあります。

 

 まぁ、そういうトラブルが起こったとしても、ジョニーさんとカブ吉くんのコンビに吉村さんも加わって、ワイワイガヤガヤやりながら楽しそうに修理してしまうのだろうなぁと、管理人は楽観的に思っておりますが……。

 

 さあ、いよいよ11年目のスタートです。

 

 今月もながながとお読み頂き、ありがとうございました。

 

※7月31日にエンジンオイルとプラグ交換をしております。

 

                                   管理人

 

2020年7月末日現在 全走行距離 250,047km

(7月走行距離 1,937km 燃費 63.61km/ℓ )

月まであと 134,353km