スーパーカブ 耐久チャレンジ

JA07型スーパーカブの耐久性を検証するブログです。

2020年8月 カブ吉くん 近況報告

 皆さまこんにちは、スーパーカブ耐久チャレンジの管理人です。

 

 今月は、終戦から75年目の8月となります。それなので、いつものカブ吉くんの近況報告の前に、そんな事も踏まえた、少し違った角度からの話しをさせて頂きたいと思います。少々長くなりますが、お許しくださいませ。

 

 ジョニーさんは毎年この8月という月を迎えると、なんだか心がざわざわと落ち着かなくなるのです。若い頃はこんな事はなかったようなのですが、年齢を重ねるとともに段々この兆候が出て来るようになってきました。

 10代から20代までは、ギラギラと照り付ける太陽の勢いを撥ね返すくらいの元気さで、青春を謳歌していたようですが、30代を過ぎる頃になると今まであえて目を向けないでいたような事も、再びきちんと目を向けて考えなければならないと思うようになってきたそうです。

 ジョニーさんのご両親は、お二人とも大正生まれの戦争体験者です。当然ジョニーさんは、小さい頃から『戦争』についてのいろいろな話しを聞かされて育ってきました。若い時にはなかなか理解出来なかったような事も、年齢や経験を重ねていくうちに、人間が生きていく事の喜びや悲しみ、楽しみや苦しみが徐々にではありますが、分かるようになってきます。

 人間一人の力ではどうにもならない程の大きな時代の流れに押し流され、巻き込まれたあげくに、『生きたい』と切望しながらも、それが叶わなかった多くの人達の事や、そのご家族の事を考えると、ジョニーさんの心はざわざわが止まらなくなるのです。

 

 1931年(昭和6年)9月に起こった満州事変を契機に始まった日本と中国の争いは、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を境に全面的な日中戦争へと発展していきます。

 更に1941年(昭和16年)12月にはイギリス、アメリカなどの連合国を相手に太平洋戦争へと戦線を拡大していきます。しかし、開戦後半年以降は日本が劣勢となる局面が増え、次第に連合国との国力の差が反映された結果となっていきました。

 そして、1945年(昭和20年)8月に広島、長崎に投下された二発の原子爆弾と、日ソ中立条約を破棄して参戦したソビエト連邦の影響もあり、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏で終戦となったのです。

 終戦直後の日本は連合国軍の占領下に置かれ、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)によって大日本帝国の国家体制は次々に解体されていきます。それは、この国の国力を削ぎ落とし、二度と自分たちへの脅威とならないようにする為に、大規模な日本の国家改造を実施する事につながっていきます。

 まずは、戦争を永久に放棄する事を謳った日本国憲法が制定されます。そして、大日本帝国の中で大きな権力を持っていた内務省の廃止や治安維持法の廃止、財閥の解体や農地改革など次々と民主化政策を実施していきます。そして、更にそれらの動きと並行して日本人の意識を改革するために、教科書やラジオ放送などのメディアを使った情報誘導による民主化政策も併せて実施されました。

 食糧事情も大変に悪く、終戦後一年近くも戦前から続いていた日本に対する経済封鎖が解かれなかったために、食料を求めるデモが東京の各地で起こっていました。1946年(昭和21年)5月には、皇居前に約25万人の民衆が集まる『食料メーデー』と呼ばれる大規模なデモに発展します。

 日本の食糧配給制度が維持できないこのような状態では、逆に占領政策が暗礁に乗り上げてしまうと考えたアメリカは、同年の5月からようやく日本に対する経済封鎖を解きます。また、同年の11月には南北アメリカ大陸に居住する日系人(戦時中は強制収容所に入れられていた人々)が中心となって『ララ物資(LARA:アジア救援公認団体)』の第一便が横浜港――新港埠頭に記念碑があります――に到着します。

 それ以外にも、ユニセフアメリカのその他の支援団体などの様々な援助や支援に助けられて、食料をはじめ、衣類、医薬品、石鹸などの物資が徐々にいき渡り始めます。

 また、工業の分野においては、重化学工業や研究施設、工場などは破壊され、ほかのアジア諸国と同様に農業や漁業や繊維などを主力産業とする、アメリカや欧州連合国に従属的な国とするべく、極端な日本弱体化政策が進んでいたのですが、1947年(昭和22年)になると、突然アメリカの中から『日本とドイツは、アジアとヨーロッパ地域の復興を促進させる2大工場として機能させる為に、この両国の復興を促進させる』という方針が発表されます。

 更に翌年の1948年(昭和23年)初頭には、大戦後から不気味な動きをみせる共産主義国社会主義国を牽制する意味も込めて、アメリカ陸軍長官が『日本を反共の砦とする』という演説を世界に向けて発信します。

 そして、その演説と前後するように日本の経済実情を分析したアメリカは、日本の産業復興こそが自由社会のパワーバランスに寄与し、新しいアジア社会構築にも有益であると確信する事となります。そして、アメリカは新たに日本の平和的な産業復興を最大の占領目的と定めて、動き始める事になるのです。

 一度はドイツと同様に全ての工業が解体され、再び強国に復活するのは不可能な状態まで転落させられるはずだった日本の運命がここで大きく変わりました。

 こんな様々な事象を経て、占領下の日本は再び経済復興の道を歩み始めます。そんな中、1950年(昭和25年)6月に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻して朝鮮戦争が勃発します。大韓民国を支援する国連軍(アメリカ軍が主導)の航空機整備の必要などから工業生産規制が緩和され、制限付きではあったようですが、重工業の生産枠も拡大されるようになります。

 この『朝鮮戦争特需』と言われる経済事象は、1953年(昭和28年)7月に北朝鮮軍、中国軍の両軍と、国連軍の間で休戦協定が結ばれるまでの3年間続く事となりました。この特需による効果は、日本の各種産業に業績の好転をもたらしただけではなく、敗戦によって中断していた最新技術をも入手する事となりました。更に、アメリカ式の大量生産技術を学ぶことも出来た上に、戦前の人海戦術的な生産方式から脱却して、再び産業立国となる上で重要な技術とノウハウを手に入れる事となったのです。

 そして、その特需景気で湧く最中の1951年(昭和26年)9月に『サンフランシシコ平和条約』が締結され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日にそれが発効する事によって、日本は国としての主権を回復する事となりました。

 それは、具体的にどういう事かというと、この日を境にGHQ連合国軍最高司令官総司令部)の進駐(占領)が終わったと言う事です。しかし、アメリカだけは『サンフランシスコ平和条約』の締結と同日に、日本と『安全保障条約』を結んでいた為に駐留が継続します。これが、今なお続く在日アメリカ軍の始まりです。

 

 少々ではなく、大変長くなって申し訳ございません。何故このような話しを延々としているかというと、それはこの後の1958年に皆さまの大好きな本田技研工業の『スーパーカブ』が登場してくるからに他なりません。

 管理人は、この発売以来60年以上に渡り基本設計を大きく変える事なく造り続けられている『スーパーカブ』というオートバイが、どのような時代背景の中から、この世の中に登場して来たのかという事を、きちんと理解している事はとても大切な事だと考えています。

 

 さあ、主権を回復したその年の6月に、いよいよ『カブ』の名前が付いた最初のモデルが登場します。『カブ号F型』です。

 この『カブ号F型』は自転車に取り付ける50ccの補助エンジンで、空冷2ストローク単気筒で1馬力を発生しました。白いタンクに赤いエンジンが特徴的なこのモデルは、全国5万軒の自転車店にダイレクトメールを送るという戦略もあって、大ヒットとなりました。

 しかし、1954年(昭和29年)になると、後発メーカーの追い上げもあり『カブ号F型』の売り上げがパタリと止まります。それに加え派手な前宣伝をうったスクーターの『ジュノオK型』が思うように売れず、ドリーム4E型も原因不明のエンジン不調でクレームが続出、ベンリイもタペットとギヤの音がうるさいと評判が良くありません。そして、その結果本田技研工業は会社創設以来の大ピンチを迎える事となります。

 その年の5月末には、外注業者全員に当時の和光市白子工場に集まって頂き、支払いの一部棚上げをお願いする事になります。ただ、それでも部品は入れて貰わないと生産がストップするので困るという、無理難題を外注業者の理解と協力でなんとか乗り切る事が出来ました。

 次は、本田技研の創業当時からのメインバンクである三菱銀行に対して、初めての支援をお願いします。こちらも三菱銀行常務及び当時の京橋支店長の英断により、全面的なバックアップを受ける事となりました。

 最後は、この年の12月の労働組合との団体交渉です。ここでも、組合の越年手当要求額2万5000円のところを、五分の一の5000円という金額で組合員たちに納得して頂くという、良い意味で信じられない結果となったのでした。

 この素晴らしい外注業者、素晴らしい銀行、素晴らしい従業員が三つ同時に揃う奇跡によって、本田技研工業は再び息を吹き返すのです。

 

 さあ、再び話しは経済復興中の日本に戻ります。

 この1954年(昭和29年)12月というのは、『神武景気』の始まりと言われています。ここから、1970年(昭和45年)までを『高度成長期』と呼びます。その幕開けの年である1955年(昭和30年)には、経済水準では、戦前を超えるレベルまでに戻ってはいたものの、まだまだ不安定さは拭えない状況でした。食べるものにも困るような事は大分減って来たものの、実感としては、まだまだ豊かな社会には程遠い状況です。

 翌年の1956年(昭和31年)になると、家電品を中心とした耐久消費財ブームが始まり、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが『三種の神器』と呼ばれるようになります。しかし、これらの家電品は庶民にはまだまだ高嶺の花だったので、その当時大人気だったプロレスの力道山を見る為に、人々は街頭テレビに群がるのです。ジョニーさんも、お父様が大のプロレスファンだったので、幼少の頃から連れて行かれていた記憶があるそうです。(ちなみに、ジョニーさんも昔は大のプロレスファンでした)

 本田技研工業としては、1955年(昭和30年)に本田技研として初めてのOHCエンジンを搭載したドリームSB(350ccモデル)とドリームSA(250ccモデル)の販売を開始し、好評を博していました。その中でもドリームSAは、今まで一度も勝つ事が出来なかった『富士登山レース』に出場し、初優勝を遂げる事となります。

 更に、1956年(昭和31年)の年末には、本田宗一郎氏と藤澤武夫氏は『カブ号F型』に替わる次期の新型50cc開発の構想を固める為に、耐久消費財ブームで湧く日本を後にしてヨーロッパへと旅立ちます。そして、各国を視察した帰国後に、新型50ccモデルの開発へと一気に進んで行く事になります。

 この頃の日本の道路の舗装率は、ヨーロッパと比較すると格段に低いものでした。まだ、主要道路の舗装率は10%くらいの時代です。悪路で誰もが容易に操る事が出来るように、エンジン出力に余裕があり、小さくて、軽くて、乗りやすくて、丈夫なものが求められます。

 1957年(昭和32年)1月、まずはエンジンの開発が開始します。エンジンは4ストロークで4馬力の出力想定しています。この時点では、世界中のどのメーカーも50ccの4ストロークエンジンは量産していません。また、出力の4馬力も『カブ号F型』の4倍に相当する高性能エンジンです。

 翌2月には、車体の開発も始まり、オリジナリティーのある様々な車体構成が決まって行きます。まず、それまでほかの車種で使用される事のなかった『17インチタイヤ』の採用もここで決まります。ヨーロッパの舗装路を快調に走るモペッド達は、概ね24インチから26インチの大径タイヤを装着しています。しかし、戦後10年以上が経過するにも関わらず、まだ主要道路の9割近くが未舗装の日本で走行する事を考えれば、日本人の体格を以ってして、乗り降りがしやすく、足つきが良く、尚且つ走破性を犠牲にしないという条件を満たすものが、この『17インチタイヤ』だったのです。

 しかし、この『17インチタイヤ』は当初タイヤメーカーやリムメーカーの反発を受ける事となります。それは、「ホンダの売れるかどうかも分からないたった1機種の為に、わざわざそれを造る事は出来ない」という、大手タイヤメーカーの造り手側の理論です。それでも、ホンダはそれを使う人々(お客様)の事を考え、決してあきらめません。そうこうする内に、愛知県にある二輪タイヤメーカーがその『17インチタイヤ』の製造を引き受けてくれる事となり、この新型50ccモデルの非常に重要な構成部分の問題は解決となりました。

 それ以外にも、女性が乗る事を意識したステップスルーの車体構成や、エンジン部を覆うレッグシールド等の樹脂部品、手動クラッチを用いない変速機構などが巧みに組み合わされてデザインされたこの新型50ccモデルは、開発から1年8か月後の1958年(昭和33年)8月に、『スーパーカブ』として人々の前に姿を現します。

 この今までのオートバイとも違う、スクーターとも違う、新しいスタイルの乗り物は、瞬く間に爆発的なヒット商品となります。今から、62年前の出来事です。

 高度成長期の時代に、この『スーパーカブ』は、まだまだ不便な部分が多い庶民の暮らしの中で、様々な場面で活用されるようになっていきます。そして、その基本コンセプトである『乗りやすさ、使いやすさ、耐久性、経済性等』という、本田技研工業の『お客様の満足が第一』の全てが結晶となったこの『スーパーカブ』は、以来庶民の生活の中に在り続けながら、大きく基本設計を変える事なく、細部の改良を重ねながら2020年の現在に至るまで連綿と造り続けられてくるのです。

 そして、その子孫であるJA07型のカブ吉くんも、2010年の7月からジョニーさんの大切なパートナーとして、日々活躍中です。

 

 大変長くなり、申し訳ございません。それでは、そろそろカブ吉くんの今月の近況報告に移らせて頂きます。 

 先月もお伝えしましたが、そのカブ吉くんの月間平均燃費が、今月もまた大変な事になっているのです。

 過去の8月の月間平均燃費の最高は、2013年の8月に記録した64.01km/ ℓ でしたが、今月に記録した燃費は、それを3km/ ℓ 以上も上回る67.18km/ ℓ を記録したのです。この記録は、現在までのすべての月の平均燃費をも上回る記録となります。(カブ吉くんの過去最高の月間平均燃費は、2011年の9月に記録した64.19km/ ℓ でした)

「一体、カブ吉はどうしちゃったんだろう?」と、ジョニーさんは驚きを隠せません。先月の近況報告でもお伝えした通り、ドライブチェーンとスプロケットの交換がこの燃費に寄与している可能性が高いとは思うのですが、それにしても『消える前のローソクの火』を思うと、ジョニーさんの頭の中には一抹の不安がよぎります。

 実際問題として、カブ吉くんの年間平均燃費は2015年(約13万5千キロ走行時)を境にして、昨年まで年々低下を続けていました。

 カブ吉くんのエンジンの調子的には、大きく性能低下をしているようには感じないのですが、燃費という面から見てみると、じわりじわりと経年劣化が進んで来ているとジョニーさんも吉村さんも考えていたのです。

 それが、走行距離も25万キロを超えているのも関わらず、再びこのような過去に記録した事もないような好燃費を、いきなり出してしまったりするのです。

 エンジンオイルが減る現象にも変化がないので、オイル下がりが止まっている訳ではありません。普通に1000kmを走って、150ccを補給しなければいけないくらいに減っています。

 

 現代の多くの人々が普通に求める、簡単とか便利という観点からは、スクーターやほかのマシン達に敵わない部分がたくさんある『スーパーカブ』ですが、60年以上前の基本設計を大きく変えずに改良を重ね、現代でも十分に活躍できる能力を持つ名機であるという事に、皆さま方も大きな異論はないと思います。

 当然ながら、この耐久チャレンジを続けているカブ吉くんも、その基本設計を受け継いで造られたモデルとなります。

 JA07型スーパーカブやこれ以降のモデルも含め、高度成長期に庶民の生活に少しでも役に立てばと、設計されてこの世に出た『スーパーカブ』達の持っている本当のポテンシャルというのは、一体どのくらいのものなのでしょうか?

 25万キロを超えても、まだ底知れない能力を感じさせるこの『スーパーカブ』というオートバイに、管理人は本当に驚きを禁じ得ません。

 

 この『スーパーカブ耐久チャレンジ』は、今後もジョニーさんとカブ吉くんが走り続ける限り、検証を行っていきたいと考えています。しかし、それが出来るのも『平和』な時代が続いてくれるからに他ありません。

 これからも、この『平和』な世の中がずっと続いていく為にはどうしたらいいのか?  一人ひとりが真剣に考え、努力をしていかなければならないと管理人は考えています。

 

 今月も、長々とお読み頂き、大変ありがとうございました。

 

                                   管理人

 

2020年8月末現在 全走行距離 252,733km

(8月走行距離 2,686km 燃費 67.18km/ℓ )

月まであと 131,667km