皆さんこんにちは、スーパーカブ耐久チャレンジの管理人です。
7月2日の日曜日、ジョニーさんは珍しく20時半を過ぎてからカブ吉くんと出掛ける支度をしています。
「日曜日のこんな時間からどこに行くの?」奥様がジョニーさんに声を掛けます。
「ちょっと、サンプラザまで行って来るわ……」
「あっ!? そうか、今日で閉館になるんだったわね……。分かった、気を付けてね」
奥様のそんな言葉に送られながら、ジョニーさんとカブ吉くんは練馬の自宅を出発します。
目白通りを少し上り込み、豊玉陸橋の下を右折して環七の内回りに入り、西武新宿線の野方駅の下をくぐり抜けます。そして、その先の大和陸橋を越えずに側道から早稲田通りに入って行けば、日曜日のこの時間帯だと中野サンプラザまではほんの10分少々の道程です。
「カブ吉~、エンジンが完全にあったまる前に着いちゃうけど勘弁してな……」
ジョニーさんはカブ吉くんにそんな言葉を掛けながらライディングをしていますが、今日はいつもと違ってなんだか心がザワザワしている感じが伝わってきます。
閉館になるちょっと前から『そんなに慌てて行かなくったって、50年の歴史に幕を下ろす最終日が達郎氏(山下達郎さん)のライブなんだから、どうせ早く終わる訳ね~よ』などとどうでもよさげな事を言っていたジョニーさんではありますが、さすがに1973年6月に中野サンプラザが出来た当時からコンサートを観るためにここを頻繁に訪れていた事もあって、この場所に対する想い入れは相当なものがあるようです。
中野サンプラザは、開館当時の正式名称を『全国勤労青少年会館』といいました。前年(1972年)には、あの日本中を震撼させた『連合赤軍あさま山荘事件』が起こり、学生運動の行き詰まりを感じた多くの学生たちは、左翼運動からだんだん距離を取り始めていた時期とも重なります。
音楽的にも、過激に反社会性を訴えるようなものから大きく変化し、ゲバ棒をギターに持ち替えたのかと思えるようなフォークブームを巻き起こし、よしだたくろう氏の『結婚しようよ』が40万枚を超える大ヒットとなり、それまでアンダー・グラウンドと思われてきた音楽が一気に社会の中に認知されていきます。そして翌年(1973年)には、チューリップの『心の旅』が80万枚以上を売り上げる事で、その後更に市民権を獲得して行く『JーPOP』の基礎を確実に構築して行きます。
さて、ここでこの時代の中野サンプラザを語る上で、もう一人忘れてはならない皆さんもよくご存じのミュージシャンがいるのでご紹介します。それは、荒井由実さん(現在の松任谷由実さんです。以降、敬称略)です。
荒井由美のデビューシングル『返事はいらない』は、中野サンプラザ開館の約1年前である1972年7月にすでにリリースをされていましたが、一部の音楽関係者以外にはまだまだ評価を得られていない状態でした。
しかし、荒井由実が当時在籍していたアルファレコードでは、今までの日本人アーティスト達とは大きく違う魅力と可能性に賭ける事が既に決定していました。そして、その後のアルバム制作会議の中で、サウンド・プロデュース及び演奏を『キャラメル・ママ』が担う事も併せて決定します。
音楽好きの方はご存じだと思いますが、この『キャラメル・ママ』(1974年にティン・パン・アレーにバンド名を変更)は、元はっぴいえんどの細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、フォー・ジョー・ハーフの林立夫(ドラム)、松任谷正隆(キーボード)という、現在ではなかなか考えられない程のとんでもなく凄腕のミュージシャンたちによって構成されています。
ちなみに、前出の72年に大ヒットしたよしだたくろう氏の『結婚しようよ』のドラムは林立夫が叩いており、ハーモニウムとバンジョーの演奏は松任谷正隆です。松任谷氏は、キーボードプレーヤーの印象が強いかも知れませんが、当時からギター・ベース・マンドリン等の弦楽器も巧みにこなすマルチプレーヤーでした。
日本の新しい音楽シーンの扉を開け始めた荒井由美という才能を、この強力なミュージシャンたちが全力でサポートしながらアルバムの完成を目指します。
そして、1973年11月に発表された荒井由実のファーストアルバム『ひこうき雲』は、日本中の音楽ファンのみならず、ジョニーさんの音楽人生にもとてつもなく大きな衝撃を与えます。
12歳からギターを弾き始めたジョニーさんの興味は、主にロックやブルース、ラグタイムなどの洋楽にあり、邦楽にはごく一部を除き、あまり心を揺さぶられるような興味を持つ事はありませんでした。
しかし、このアルバムを手に入れてからは、朝起きた途端にターンテーブルの上に載せっぱなしの『ひこうき雲』に針を落す生活がしばらく続いたそうです。
ジョニーさんもその頃はバンドを組んでいて、ジョニーさん自身はベースを担当していたので、特に細野晴臣さんのプレーに関心を寄せていたようでございます。
1973年6月の中野サンプラザ開館時は、『全国勤労青少年会館』というのが正式名称だった事は既にお伝えしました。この名前から考える限り、勤労者へ向けての福祉施設としてこの会館が建設された事は間違いないのですが、ジョニーさんから聞いた話しによると開館当初は不定期(この部分については、あまりはっきりとした記憶がないそうです)ではありましたが、勤労者や青少年たちに大きなご褒美があったそうです。
それは、荒井由実(当然バックはキャラメル・ママ)、サディスティック・ミカ・バンド《加藤和彦(ギター・ボーカル)、加藤ミカ(ボーカル)、高中正義(ギター)、高橋幸宏(ドラム)、小原礼(ベース)、今井裕(キーボード)》、BUZZ(日産スカイラインのCMソングである『ケンとメリー~愛と風のように~』が有名)、その他いろいろなアーティストたちが出演していた『無料コンサート』が、しばしばこの中野サンプラザで開催されていたという、今では想像も出来ないくらい贅沢なお話しです。
そういう数々の思い出があるジョニーさんなので、『中野サンプラザが閉館する夜は、必ず現地に行って自分自身の目にしっかり焼き付けておこう』などと、実は前々から考えていたようなのです。
中野サンプラザ前に到着したジョニーさんは、カブ吉くんを駐輪場に入れた後、建物正面の広場に集まっている群衆の中に分け入って行きます。
しばらくの間、あっちへウロウロ、こっちへウロウロとしながら、サンプラザの正面玄関付近が見やすい場所を探します。集まっている群衆の数は、数百人規模というところでしょうか。
21時を過ぎた頃から、正面玄関の建物内では何やら式典のようなものが始まりました。アマチュア時代に高評価を受けたバンドのコンテスト会場がこの会館だったので、そのままそれを芸名としたサンプラザ中野氏の顔も見えます。
広場に集まっている群衆のあちこちから、『ありがとう!』の声が飛ぶ中、最後は従業員の方々が階段に整列し、一礼をして式典は終了となりました。
2028年度には、『NAKANOサンプラザシティ』として新生オープンの予定らしいので、楽しみにその時を待ちたいと思います。
さて、中野サンプラザ閉館のお話しが長くなってしまいましたが、カブ吉くんの近況報告に移ります。
先月に引き続き、ジョニーさんが退職前の年休消化に本腰を入れてしまった結果、悲しい事にカブ吉くんの走行距離は激減してしまいました。
6月30日に給油をして、6月の走行データを取りまとめた後、7月に入ってから最初に給油をしたのがなんと16日だったというくらいのていたらくです。
その後、ジョニーさん自身が在職中にどうしても顔を出しておかなければならない伊勢原や平塚の現場に顔を出したり、大好きな都内の夜走りに行ったりしてみたものの、最終的には月間走行距離が1000kmを初めて割り込む804kmで終わってしまうという事態になってしまいました。
メンテナンスに関しても、先月実施しなかったオイル交換は実施しましたが、それ以外の日常のメンテナンスは、距離を走っていないのでドライブチェーンへの給油や空気圧の調整、リヤブレーキの調整などが各一度行われただけでございます。
5月までの走行パターンに比べると、6月から7月に掛けてはジョニーさんがカブ吉くんに乗る頻度が本当に少なくなってしまいました。
『毎日適度に乗ってやる事が、最上のメンテナンス』などと言っていたジョニーさんですが、有言不実行が二か月続いてしまいました。
幸いカブ吉くんの調子は落ちていないようなので、そちらはひと安心なのですが、『ドライブチェーンを交換してからの燃費の変化を見る』という新しいチャレンジに関しては、データを取りようにも取れないくらいに、あまりに走らなすぎのような気も致します。
『退職しても、8月は暑いからどこにも行かない!』と宣言をしていたジョニーさんなので、来月以降がとても心配ではありますが、なんとか頑張って頂きたいものです。
さあ、いよいよカブ吉くんの14年目が始まります。この一年は一体どんな一年になって行くのでしょうか? 管理人も期待しながら待つ事に致します。
最後になりましたが、大雨の被害が西日本各地に出ているようです。被災された方々にはお見舞い申し上げます。くれぐれも、ご無事であられる事を祈っております。
それでは、また来月お会いしましょう。
管理人
2023年7月末日現在 全走行距離 316,476km
(7月走行距離 804km 月間平均燃費 63.61km/ℓ )
月まであと 67,924km